今年の新入寮生は35名。
駒込寮に28名、板橋寮には7名です。
令和6年4月14日、今年の新入寮生35名の歓迎会が開催されました。4月14日(日)は新しい出発を祝うような快晴、歓迎会日和でした。11時30分過ぎ、駒込寮の玄関前に勢揃いして記念撮影が行われました。大学生になった希望に溢れる笑顔が素敵な新入寮生の前途が期待されました。歓迎会は12時から開始され、最初は講演会、続いて新入寮生歓迎会が開かれ、全員が自己紹介をした後、乾杯があり会食を楽しみました。第二部は音楽演奏アトラクションがあり、会話や飲食とともに素晴らしいライブ演奏を楽しみました。
第一部 講演会
新一万円の顔『渋沢栄一が願う社会』
講師 渋沢資料館 学芸員 永井 美穂様
新入寮生の皆様、入学おめでとうございます。故郷を離れると改めて故郷は大事だなと思うものです。私は岐阜出身で東海地方の大学でした。父や兄は東京の大学に入り、学生寮で過ごしたのですが、寮時代の先輩や仲間と過ごし、心強かったと言っていて羨ましく思ったものでした。健康に気をつけて両親への連絡を密にしてください。学生時代は人生の中での贈り物みたいなもので、人生における恩師やかけがいのない友人が得られる時です。そして周りの人に助けられたり、助けたと支え、支えられる存在として過ごしてください。今年新一万円札が発行になり、渋沢栄一がその顔となります。大河ドラマの主人公となった渋沢栄一ですが、関連の本もたくさん出ています、今日は彼がどんなことを大事に思い、どんな社会を目指したか、をお話しますので、理解を深めてください。
駒込寮から歩けるところに渋沢栄一の旧居がありました。
ところで、渋沢資料館は飛鳥山にあります。この寮からは歩いて20分くらいです。ここは渋沢栄一の旧居跡で、彼の生涯と事績の資料を展示しています。飛鳥山には彼が明治12年に庭もある別荘を作り来客などを対応しました。さらに大正年間建設した二棟の石造りの建物は「晩香蘆」「青淵文庫」として現在公開しています。さて、渋沢栄一ですが天保11年(1840)に埼玉・深谷で誕生しました。生家は藍玉の製造販売をしていました。青年時代は、ちょうど尊王攘夷運動が盛んだったこともあり彼も高崎城乗っ取り事件とか横浜での異人襲撃事件計画などやったりしました。そのため幕府からの追求を逃れるため京都に逃れた。やがて、後に第15代将軍になる一橋慶喜に仕え財政改革などを実績をあげ、出世の道を歩み出しました。
江戸から明治に時代の変化が渋沢を成長させた。
〜尊王攘夷派から西欧文化を取り入れた経済人へ〜
一橋の家来になって家政の改善などに成果をあげ、認められてきました。慶応2年(1866)徳川慶喜が第15代将軍に就任。翌慶応4年(1867)パリ万博に日本が初出展するため2月に慶喜の弟徳川昭武を代表にパリへの使節団が派遣されたが、渋沢栄一も慶喜の命で随行することとなった。4月にフランスの到着し、栄一は外貨両替や会社組織など西洋の近代的な金融・経済のシステムなどを学んだり、パリの景色は石造の街、ガス灯がつき水道が引かれ、新聞が発行されている。中でも元手はなくても賛同者を募り会社を起こすという会社組織・株式会社を知りました。しかし、慶応3年大政奉還がなされ、直ぐに鳥羽・伏見の戦いから明治維新が始まりました。そして、明治政府から帰国命令が出され全員が帰国しました。
帰国後、栄一は明治2年(1869)から明治6年まで民部省・大蔵省の改正掛として新しい国づくりのため、株式会社の仕組みや設立手続き、方向性などを作ったり、電信、鉄道、度量衡、郵便、貨幣制度、関税などの推進をし、群馬の富岡製糸場にも携わりました。 明治6年に退官して一民間人として活動始めました。まず最初に行ったのが国立第一銀行の設立です。5層建のこの銀行はもともと三井組が為替座のために作ったものを国立第一銀行としたものです。栄一は金儲けは卑しいものではないといい、銀行は川のようなもので、支流が集まり大きな川となる、銀行とはそういうように金を集めて会社を作る、と。 渋沢栄一はこの国立第一銀行では総監査(後に頭取)をやった後、さまざまな会社例えば東京電力、東京ガス、大日本麦酒、王子製紙など約500社の設立や育成に携わり実業界で活躍しました。さらに福祉、教育、医療、国際交流など公共事業などでも600余を作ったり育成したりしました。
忠恕、合本、道徳経済合一が3大テーマ
ところで『渋沢栄一が願う社会』というテーマですが三つあります。一つは「忠恕(ちゅうじょ)。これは論語からとった言葉ですが、己の真心を尽くし思いやりを為す、ということで、思いやりがあれば商売や人間関係などは適切にできる基本だ、ということです。
二つ目は「合本(がっぽん)主義」。栄一は近代日本資本主義の父と言われますが」彼は会社は合本説でなければならない、と言いました。多くの事業を行う中で会社は合本組織として皆んなでやり、中心の人もその一人となることで、資本家だけが儲かれば良いというのではなく、公益の追求に最も適した人を集めて事業をやるのです。
三つ目は「道徳経済合一論」でした。商売をしている中で生産殖利と道徳は一致させなくてはならないということです。たくさんの事業を行う上で、彼は道徳と経済の両立を訴え、「論語と算盤」という考え言いました。それを象徴する絵があります。
右側にシルクハット、手前に論語の本、その後ろに刀を描いていますが、商売している中で論語の正しさと商売は両立ではなく合一であると言っています。彼が公共事業に力を入れたのも世の中を良くする、国のためになるためで、そのためにも民間の力を発揮しなければならないということで、実践してきました。これらは道徳を「論語」に、商売を「算盤」に象徴させた彼の名著に書かれています。
新一万円札に描かれた渋沢栄一は、子供の時から親しんだ論語をベースに、若くしてフランスで経験したことを明治から昭和にかけて日本経済発展に貢献しました。彼が願ったのは、便利で豊かな社会実現のためには必ず道徳がなければならない、ということでした。
質疑応答
質問 渋沢栄一は明治政府から民間に移ったが、誰でもできることではないと思います。その原動力はなんだったのでしょうか?
答え それは彼が一生懸命仕事をやる、ということだったからだろう。政府にいた時建白書を出した。しかし、理不尽と思い大蔵省を辞めようとしたら上司の井上馨が止めたがだめだった彼は疑い続け、これで満足するということがなかった。一度木材の輸入が多かったので国産にしようとしたことがあった。いろんな人と話をし解決したが、これなども合本主義の考えだった。いつも同じ人ではなく、新しい人と仕事をやったりして仲間が増えてゆく。同時に解決する力にもなった。
寮監 和田 豊